ヒカリの学習ノート

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MMT(現代貨幣理論)補足 前編

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今日はカテゴリー「経済」で投稿した記事「MMT(現代貨幣理論)を知る」に関する補足説明の前編だ。

 

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前の記事では国債発行と財政出動の仕組みを簡単に解説することで、いわゆる国(政府)の借金と言われているものが懸念事項ではないこと、景気の回復への後押しこそ優先するべきことだと伝えてきたんだけど、そもそもMMTと対極を成す主流派の貨幣論との比較をしていなかったので、何がどう違うのか分からないという読者も多かったと思うんだ。そんな疑問に応えるべく、今日から2回に分けて、主流派とMMT派の貨幣感の違いや日本と海外のMMTの違いについて説明して行くよ。

 

先ずは、主流派と呼ばれている従来の貨幣論と現代貨幣理論(MMT)の違いについて話して行こうか。

 

 

商品貨幣論(お金そのものに価値がある)

 

みんなは映画やアニメで中世ヨーロッパが舞台の作品を見たことがあるだろうか。その中では金貨や銀貨で取引している場面が出て来るよね。当時は金や銀というそれ自体に価値がある通貨を用いて取引されていたんだ。だから、財源には限りがあるし、領民から徴収した税を用いて領主は所有地を維持し、自らの生活を向上させてきた。時には金の含有量が少ない粗悪な金貨まで出回ることがあった。まさに、お金そのものに価値のある「物」だったんだ、

 

これこそが、従来の貨幣感である主流派の「商品貨幣論」だ。恐らく、現代人の多くが今でもこの貨幣論を信じていると思う。何故なら、財源が税金だと信じている人が大多数だからだ。未だに公務員の給料や社会保障費は『私たちの税金』で賄われていると考えているからだよ。つまり、財源は有限であって、赤字のときはより多くの税金を徴収しなければいけないという結論に至ってしまう。根底にある理屈は貨幣登場以前の物々交換による取引から来ているのだろう。要は、みんなが「価値がある」と信じている、替えの利かない有限の資源、つまり「金(きん)」と同一視しているんだ。そんな中世の貨幣感である「金本位制」が常識として染みついているからなのか一昔前には「埋蔵金」なんて言葉が出て来た時期もあった。これは霞が関埋蔵金(政府会計の話)のことで、徳川の埋蔵金とは関係ないんだけど、仮に徳川改造金の話と勘違いした人がいたとしても笑い飛ばすことはできないよ。結局、どちらも財源は税金であり、お金は有限なものだと考えているのだから、根底にある貨幣論は同じなんだ。お金を物だと考えていると言う点では変わらないよ。

 

国定信用貨幣論(お金とは国が価値を与えたもの)

 

一方MMTでは、お金はあくまでも国が価値を与えたに過ぎず、紙幣や硬貨(銅や青銅、白銅、ニッケル黄銅)という「物」はお金の価値を保存するための容器に過ぎないと見ているんだ。日本なら日本円、米国ならドルのように、国ごとに発行した通貨が価値あるものとして流通し、国民の間で共通して使われている理由は、その国で生活するためには税金を納めなければならないからだ。税金を納めなければ逮捕されてしまうから、仕方なく我々は日本円を使っている。仮想通貨(暗号通貨)が日本円に取って代わられることがないと言い切れるのは、日本円以外での納税を国が認めていないからだ。各国が納税を強制することによって、稼ぐために労働力が生まれ、より多くの富を有する者が他者を使うことができる。生活するためには労働して給料をもらわなければいけないわけだけど、累進課税によって稼ぐほどに吸い上げられるよね。これはマネ―ストック(世の中に出回っているお金)の量を調整することが目的なんだ。国定信用貨幣論が租税貨幣論とも言われている理由はそのためだよ。

納税を強制することによってその国の通貨に価値が生まれるのであって、徴税しないと財源が確保できないということではない。だけどそれを公にしてしまうと納税の意味に疑問を持つ人も出て来るだろうし、国としては生産力を上げたいわけだから、頑張って労働してもらわないことには困る。だからあまり大っぴらに「税金は財源ではありません」なんて言えないのかもしれない。みんなが貨幣論に興味を持って学ぶわけではないから、後々誤解が生じてややこしいことになり兼ねないからね。

 

ここまで聞いて、結局どちらも「お金に価値があるとみんなが信じている」だけじゃないかと思うかも知れないけど「商品貨幣論」では兌換性が前提とされていて、お金とは世界中の人間が共通の価値として認識している「金(きん)」と交換できる価値があると考えているのに対し「国定信用貨幣論」では、国が価値を保障しているから信用しているだけだ。更に、自国通貨で納税しないと逮捕さてしまうからお金を求めているのであって、お金そのものには「金」のような希少性はない。何故ならいくらでも発行できものだからね。

 

財政的制約はないが実物的制約はある(お金はいくらでも発行できるけど需要を満たすだけの資源や供給力が足りない)

 

こういうことを言うと必ずというほど「だったら50京円ぐらい発行して太平洋や日本海を埋め立てて国土を拡張してみせろよ」と極端な例を出してくる人がいるんだ。専門家でさえこんな反論をしているんだけど、はっきり言って不可能だよ。お金は数字としてなら1京円でも1垓円でもいくらでも発行できるけど、仮に太平洋埋め立て工事を政府が発注するとして、その資源や労働力が足りないよね。財源はともかく、労働力は有限なのだから、50京円もの需要を満たすだけの供給ができないんだよ。MMTが財源は有限ではないけど供給力には限り上がると主張しているのはそういうことなんだ。このことを「財政的制約はないが実物的制約はある」なんて言ったりしている。尚、MMTは赤字を軽視なんてしていないし、どの部分の、どの程度の赤字がインフレ率に影響するのかを気にかけているし、核戦争の勃発や大規模な災害で人的、物的に供給力が徹底的に棄損されてしまったならばハイパーインフレになるだろうことも認めているよ。この場合、先に上げた「財政的制約はないが実物的制約はある」がまさしく当てはまることになる。想像してみて欲しい、もしみんながストーンワールド(「Dr.STONE」稲垣理一郎/原作 Boichi/作画)みたいな文明の崩壊した世界でいくらお金を持っていても衣食住、何一つ確保できないだろう?お金の価値を支えているものが資源や労働力といった供給能力であるとはどういうことなのか、少し考えれば誰にでも分かることだろう。

 

国債を発行し過ぎると日本円の価値が下がる?

 

みんなが財政赤字を心配していて、将来世代へのツケを残すことになると信じているのなら「商品貨幣論」の立場にあるということになる。日本円の信用がなくなってヤバいというのは、私たちの日本円に対する信頼が揺らいで価値が下がると考えているからだ。だけど、先に説明した「国定信用貨幣論」の立場に立つと、この理屈は有り得ない。そのそも、価値が下がろうと何だろうと、税金を払わなければいけないのだし、日本で生活する上では嫌でも日本円を使わなければいけない。私たちが信用しようとしまいと関係ないことになる。日本国が円に価値を与え、納税は円で行うように強制している限りは信用が揺らぐことはない。それでも日本円が信用できないのなら保有金融資産を全てドルにでも替えれば良いだろう。そして日常生活ではドルを使い、納税もドルにしてみたら良いよ。「国定信用貨幣論」を否定するということは、そういう生活ができると断言するようなものだ。あと、海外の投資家が国債を大量に売ったらどうするんだと言われるけど、それなら円を発行して買い取れば良いだけだ。どれだけの規模の投資家であっても、一国の貨幣発行能力を上回るほどの資産を保有しているわけがない。

 

将来世代へのツケと懸念されている国債残高は、市場に供給したマネ―ストックの量を数値として記録したものに過ぎないんだ。統合政府(親子関係)である政府と日銀の間での貸し借りが原因で破綻するなどあり得ないことだということが分かるはずだ。国債金利の取り扱いやバランスシート上の問題については別の記事を参照して欲しい。

 

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高額納税者が偉いのだ!「財政均衡主義」

 

ここまで説明してきたけど、依然として多額の納税をした人が国に貢献しているという考えは人々の間に根強く残っている。これは、先に説明した「統合政府」を知らないからだろう。要するに、政府と日銀は別もので、政府には通貨発行権がない、だから財源を確保するためには国民からの税金が必要なんだという考え方だ。赤字は許されない、血税を大事に運用しなければならないというのが「財政均衡主義」だ。

確かに、資本主義社会に於いて雇用を創出している起業家の存在は大きい。研究、開発資金を確保して医療、科学の発展や技術革新をもたらしている企業の存在も国にとっては貴重だ。しかし、個人が大きく稼いで税金を吸い上げられていることと国の財源確保とは一切関係がない。医療や農業・漁業・林業・工業、通信、テクノロジー関連や交通、運輸のような私たちの生活に不可欠な労働と生産活動は存在しなければならないが、生きていく上で必ずしも必要ではないもので勝手にマネ―ストックを自分の懐に掻き集めて、貨幣流通量の調整のために税金を吸い上げられているとしてもそれは仕方のないことだし、国のために貢献しているという考えにも違和感がある。ひろゆき氏が言うように「生活に不必要なもの」あるいは「生存するために必ずしも必要ではないもの」ほど儲かる仕組みなのだ。身近な例で考えれば察しが付くものは多いだろう。ちなみに、映画「インターステラ」の世界では娯楽の一つであるプロ野球が廃止されている。

 

何度も言うが稼いだ分を吸い上げられるのは貨幣供給量の調整上仕方のないことなんだ。乱暴な言い方をすると、吸い上げられるのが嫌ならたくさん稼がなければ良いことになる。しかし、私たちの生活をより充実させ、文化を発展させるためには娯楽も必要だし、稼ぐ意欲が削がれると技術革新も起こらなくなってしまう。こんなにも便利な世の中になったのは誰かが得するからなんだ。そうでなければスマホは誕生しなかっただろう。単純に文字と音声で連絡が取れてネットが閲覧できるだけで良いのならガラケーで十分だったはずだ。人間の欲深さは発展をもたらすのだと筆者は考えている。それを思うと納税額の調整は難しい課題ではある。

 

とはいえ税金は財源ではないし、財政の目的が経済を安定させるためのものであることは揺るがない。以上の理由からも政府の赤字云々は関係ないのだというのがMMTの主張する「機能的財政論」であり「財政均衡主義」とは対極を成すスタンスなんだ。何度も言うが、依然として「財政均衡主義」で経済を捉える人が大多数であり、今後も変わることはないだろう。現代に於いて税金が財源ではないのだと主張することは、16世紀に地動説を唱えるようなものだ。異端者とみなされることは避けられない。

 

国も企業や個人と同じくマネーゲームの参加者なのか?

 

ここまで説明してきたように今尚根強く支持されている「財政均衡主義」の立場では財源は税金であり、有限なものであると考えられており、私たちはその価値観を基礎として政治的な判断を下してきた。国には自由に通貨を発行する権限はなく、企業や我々個人と同様にマネーゲームに参加するプレイヤーの一人に過ぎない。だから、競争に敗れた選手が失業しても致し方がないという結論になってしまうんだ。しかし、実際には日本政府と日銀は統合政府であり、必要に応じて財源を確保することができることは既に述べた通りだ。国は立法から徴税に至るまで、マネーゲームのルールを作り、補足し、時として管理、審判することができるゲームマスターのような存在である。だったら、運営者の役割から企業や個人の危機の際には介入して救済してやることもできるだろう。MMTが「国定信用貨幣論」の立場から主張しているのはこういうことなんだ。

 

中央銀行の介入でお金の供給量を増やす「外生的貨幣供給論」は無意味?

 

マネーゲームのプレイヤーである企業や国民が苦戦しているのであれば、ゲームマスターが介入してやれば良いとは言ったけど、中央銀行による金融緩和にはどの程度の効果があるのかについては非常に疑問だ。銀行が保有する国債を日銀が買い受けて、日銀当座預金を増やしてやることはできるよ。これは買いオペとして知られているんだけど、要するに中央銀行が外側から介入して貨幣を供給してあげれば後は勝手に企業が融資を受けるだろうという考えだ。このことを「外生的貨幣供給論」と言い、主流派の経済学が採用してきた方法だ。金利を低くすれば借りやすくなるだろ、あとは設備投資でもなんでもしてくれ、と。でもね、デフレで需要が落ち込んでいるときに設備投資したがる企業がどれぐらいあるのだろう。それを言っているのがMMTの「内生的貨幣供給論」なんだ。起業や国民がお金を借りたいと思えるような社会情勢にないのであれば、どれだけ銀行の貨幣供給量を増やしたところで借りる人はいないだろうという主張だ。だからこそ、まずは政府が率先して需要を作ってあげて、企業の設備投資と雇用を促進してあげようじゃないかと言っているんだ。日本のような災害国であれば公共事業で国民の命を守ることもできる。この辺は、公共投資に否定的な本家MMTとは異なるところなんだけど、その話はまた後編で触れたいと思う。

 

補足のつもりで書いた記事なのに長くなってしまった。

ここまで読んでくれてありがとう。次回はもう少し短くなると思うから、せっかくなのでまた読んでみて欲しい。

 

それでは、また次回の記事で。